あゆみの丘は、1年を愛で計ることを始めます。
『シーズンズ・オブ・ラブ』という曲に着想をえてエッセイを書きましたので、愛と子ども福祉に興味がある方はお読みください。
エッセイは動画の下にあります。A4用紙にすると2ページ弱です。
『シーズンズ・オブ・ラブ』☟
生きられる時間の計りかた ~阿武山学園での私の学びと今後のゆくえ~
※本エッセイは、『創立60周年記念誌 共に暮らす教育』、大阪市立阿武山学園、2020年11月発行、へ寄稿させていただいたものです。
525,600分。米国ミュージカル『レント』の主題歌「シーズンズ・オブ・ラブ」によると、1年を「分」で換算すると52万5600分らしい。
なるほど、過ぎてしまえば「あっという間だった」と表現されるその時は、40万3200分(280日)あれば新たな生命が宿ってから産み落とされるまでの神秘的な時になりうるし、その逆、人は4320分(72時間)だけでも飲まず食わずの状態が続くと緊迫の時になる。「分」を通して時をみると「あたりまえ」の時間感覚が相対化されるようだ。
さらに『レント』で歌われているのは、1年を「分」で置き換えて計ることができるように、1年を別のモノサシを用いて計ってみないかということであった。例えば、陽の光の数、飲んだコーヒーの数、インチやマイル、笑った数や喧嘩をした数で・・・そして高らかに謳う————「愛で計るのはどうだろう? 愛で計ろう!」
現在、筆者が勤める児童心理治療施設あゆみの丘では「一日千褒の想い」をキャッチフレーズに、子どもを褒めることに重点を置いた支援を行っている。実際、子どもを褒めた回数が日日累計で数えられるようになっており、支援の指針になっている。褒める回数の目標数は職員間で共有されている。したがって、褒める数が足らなければ意識的に褒めていこうとなり、反対に褒めすぎであればターゲット行為の種類を変えること、または期待値を上げて回数を抑制しようとする。褒めることは私たちにとって明確な目的をもった「処方」であり、この意味で1年を褒めた数で計ることも可能だ。
しかし、現状に満足するわけにはいかない。褒めることは「愛」の一部であるに違いないが何かが足りないと感じている。合目的性ゆえに職員の関与や行為をカテゴリー化した結果、捨象されてしまう決定的な何かがあるのだ。つまり、行動療法の手順に忠実に、客観的に測定可能な行為をターゲットにした結果、そこから主観や間主観性(主観と主観の間でそれぞれが重なる部分、共同主観性とも言う)がこぼれ落ちてしまう。「愛」とは、このような主観や間主観性を含むものではないか?
筆者が駆け出しのケアワーカーとして阿武山で学んだのは「withの精神」を金科玉条とした間主観性の支援であった。同じだけ農作業し、同じだけランニングをすると、子どものお腹がすく時私もお腹がすいていた。子どもと一緒に献立表のメニューに一喜一憂したものだ。ある時には、久々に立ち寄る駅前のまぶしさと胸躍る気持ちに共感した。そして、施設暮らしを余儀なくされる子どものやるせない気持ちがわずかながらわかった気がした。
阿武山では共に暮らすことを根拠にした自らの身体感覚、そして共に暮らす中での愛憎入り交じった心の接触、それらを手がかりに子どもを理解する仕方を学んだのだと思う。言い換えると、阿武山の支援法には、「今ここ」を否応なしに感じさせる身体性に基づいた、子どもと私との間で個別具体的に継続する相互交流と相互承認があったのだと思う。『レント』で語られる「愛」の正体はこれではないか?
あゆみの丘は中舎の交替勤務制なので、筆者としては阿武山と同じことができるとは考えていないし、同じである必要はないと思う。だが最適解を探る中で、現行の実践を「愛」の観点から眺め相対化し、創意工夫をすることが求められている。
未だ試案の段階であるが、例えば、子どものアタッチメント行動に対する職員の適切な応答を「愛」の現れとして数えられないだろうか。子どもの火照った額に手を当てることや寝つけない子どもに絵本を読み聞かせすることを数えるのはどうか。誤解をおそれずに言えば、体温を計測するのは医療従事者の仕事であり、本を朗読するのは教師の仕事である。では、ケアワーカーの仕事の本質はと言うと、顕在的なニーズに応答しつつ、潜在的で、ときに不器用な愛の欲求を察知し、それに適時適切、自らの身体を用いて応えることだと思う。
より良い支援法の構築のため、そしてより良い子どもの福祉のため、筆者は阿武山での学びをこのように活かしたいと考えている。IotやAIの発展による第四次産業革命と言われるこの時代にこそ、「愛」が忘れられないように。
最後になりましたが、設立60周年おめでとうございます。貴園の益々のご発展をお祈りするとともに、今後もご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
あゆみの丘施設長 いのうえ