当園の食堂にあるスローガン、「感謝して食べよう!」。私はこのスローガンを見るたびに、ぐるぐると考えを巡らせます。
写真:食堂に長年貼り出されているスローガン(令和4年1月1日撮影)
このスローガンはシュールです。なぜなら、「今月の」目標であるにもかかわらず、毎月同じで変更されることがありません(笑)。
ですが私は安堵を感じます。例えるなら、のび太やタラちゃんが何年経っても年を取らないようなものです。つまり、それだけ大切な不変の理だということです。行き着いた究極の言葉が「感謝して食べよう」だったのでしょう。「姿勢を正して~」とか「よく噛んで~」とか、ありがちなものでいうと「好き嫌いなく~」とか、考えられる食育目標はいろいろあるでしょうが、「感謝して食べよう」ならば、広い意味で、おおよそすべての目標をカバーできるのです。
したがって今のところ、このスローガンを変更するように提案や指示はしていません。
その代わりに、このスローガンが意味するところを私なりに掘り下げて考えてきました。そんな漠然と考えてきたことを以下にシェアいたします。
※以下の考えは、栄養学や食育の歴史研究を一切参照していない個人の所感です。
食育3.0
〇結論から
結論から言うと、食育におけるパラダイムシフト(価値観の大きな転換)が起きたことをみなが薄々わかっているものの、うまく言語化されていないことに現在の食育の説明不足があるのだと思います。
わかりやすい例を挙げましょう。「感謝して食べよう」と子どもに向けて言うとき、「何に」対して、あるいは「誰に対して」感謝するのですか?
私たちは、この答えがあいまいなまま、このスローガンを唱えています。
私たちは「感謝して食べよう」と言うとき、自らが知る人に向けて感謝をするべきだと思います。同時に、自らが知る世界を広げ、感謝する対象を広げていくことも食育のひとつだと思います。
〇お百姓さんに感謝?
私が子どもの頃は、「お百姓さんに感謝しなさい」とよく言われました。今の子どもには「農家さん」や「生産者さん」と言いかえたほうがいいでしょう。しかし農家さんや生産者さんを身近に知っていればいいですが、そうでなければ説明と知識、そして想像力が必要です。直接の経験や関係がなければ、つまり農家で育ち、あるいは間近に苦労を見ていなければ、いくら感謝を述べても実感を伴ったものになりません。いわんや嫌いな食べ物を前に感謝の気持ちが湧き起こり、食べるのを後押しすることなどないでしょう。
〇いのちに感謝?
20年近く前に大阪のある小学校で「いのちの授業」と称した授業がありました。クラスで豚を飼育し、卒業前に食べることを通して「いのち」について考えることを目的とした授業です。教育界を越えて世間の耳目を集め、後に映画化までされたようです。結果は、豚に情が移り食べることができませんでした。
写真:『ブタがいた教室』(2008年)
「いのちの授業」は、皿に載せられた豚料理と生きた豚との落差を教えてくれます。子どもたちは、豚の飼育を続けるほどに豚の可愛さを知り、食用豚が取替え不能な唯一の豚になったのだと思われます。「いのちの重さ」を体感的に学べた点でこの授業は成功だったと言えますが、仮に、飼育後に食べるということが目標だったならば(実際はオープンエンドだったようです)、豚に対する感情的な距離の取り方、いわば冷徹な関わり方を教える必要があったでしょう。
しかしどうでしょう。私たちが現代教育の文脈で食育を考えるとき、「いのちの大切さ」は説いても生き物に対する冷徹さや「食べるに値するいのちの軽さ」を教えることはありません。そうだとすると、私たちは案外軽々しく「いのちに感謝して食べなさい」と言ってしまっていたのかもしれません。
〇グローバル視点の欠如
ここまで、「農家さんに感謝しよう」、「いのちに感謝しよう」と言うのは、実は一筋縄にはいかないことを述べました。もうひとつ、今の食育に欠けている視点があります。それはグローバルな視点です。
身近な例を挙げます。我が家の食卓では「ピンク ヒマラヤン ソルト」をテーブルソルトとして使っています(普通にスーパーで売っています)。わが子には「ヒマラヤで塩を採掘してくれている労働者さんに感謝しなさい」ともっともらしく言いますが、半分冗談です。というのも、子どもはその労働者さんの姿が想像できないのは明らかですし、私もそこが暑いのか、寒いのかすらも知りません。
ちなみに、我が家のクッキングソルトは、オーストラリアの天日塩です。国産の天日干し海塩ならなんとなく労働の情景が思い浮かぶのですが、オーストラリアだとお手上げです。それにしても、よくよく考えてみると、最もよく使われる精製塩こそ、誰のどの行為に対して感謝をすればよいのかチンプンカンプンなのでした。少なくとも機械を動かすために石油を使っているはずなので、石油タンカーの船乗りたちに感謝しなきゃ、という具合にどんどん対象が経験の外へ拡散してしまいます。
今や私たちが口にする食べ物には、世界中のたくさんの人と物と職種が関与しているので、さまざまな対象に感謝しなければならない無理になります。
〇活きた学びの復興
では、どうすればいいのでしょうか?私は2つ答えがあると思います。
ひとつは、自らの経験する世界の内側にいる人、つまり直接見聞きできる人に対して感謝することです。自らが経験する外の世界の人、つまり顔も仕事内容も、場合によっては国籍もわからない匿名の労働者に対して感謝をするのは、一旦留保すべきです。
当園の給食であれば、調理員さんに感謝しながら食べましょう。今時の調理員さんは恩着せがましくすることはありませんので、第三者にあたる職員が、調理員さんの日々の調理業務に対して敬意を払うように子どもたちの心を向けるべきでしょう。子どもたちの感謝の気持ちに対して、調理員さんがさらにまごころ込めた調理で応える、というプラスの循環が生じれば理想です。
もうひとつは、子どもが経験する世界を広げることです。
食育3.0(その弐)につづく
施設長 いのうえ