特にヒマ…というわけでもないけれど、日頃は「そんなこと、どうでもエエやん!」と思っているようなことを、あらためて考えてみるのもいいかな…と、たとえば哲学系の本なんぞを引っ張り出してきます。

昨日取り出したのは文庫本で、プラトンの『プロタゴラス-あるソフィストとの対話』です。もちろん、また最初から読もうなんて気は全くなかったので、ちょうど真ん中あたりのページを開けてみました。ちなみに、「あるソフィスト」とは、ソクラテスのことです。

そこには、「平等と公平」「論議と論争」「尊敬と賛美」「愉楽と快楽」のように、いくつかの類似概念を持ち出して、プロディコスという人が、それぞれが似て非なるものだと、違いについての短い説明を添えて主張している言葉がありました。注釈によると、彼は、言葉の正しい使用を重んじた人だということでした。

なるほど、なるほど!う~む? おおかたの納得とわずかな不承のうちに、別のページに移りました。すると、そこでは、厄介なやり取りに出くわしてしまいました。

たぶん十分な説明はムリと承知のうえで要約すると、次のような内容になります。

当時の啓蒙的教育者(ソフィスト)のほとんどは、「知識」が絶対的な価値を有するとしていたが、一般大衆は、知識から得たもの(たとえば正義)は、快・不快といったモノによって簡単に歪められ征服されてしまうではないか!などと、知識の絶対優位性には疑問を持っているはずで、いかに大衆に「知識の重要さ」を説明できるのかを対話で詰めていこうとします。そして究極、ソクラテスは、快楽や苦痛との量的な比較が意味を持つと考え、その計量技術こそがすなわち知識なのだとし、その論理で大衆を納得させられるはずだと、プロタゴラスを説き伏せていくのです。

しかし、この対話の最後の最後には、両者の当初の主張が交差してしまう状況が起きるのです。その修正はなされず仕舞いで対話者は去っていき、読者は置き去りにされてしまいます。解説によると、これが、この本を書いたプラトンの狙いだというのです。われわれは知らず知らずに、彼の思惑通り、哲学の世界に誘い込まれるというわけです。